○特別攻撃隊の編成
○特攻隊員たちが宿泊した中村屋旅館
○加古川周辺の空襲
特別攻撃隊の編成
太平洋戦争末期、戦況の悪化に伴い、海軍、陸軍共に体当たり攻撃の特別攻撃隊が編成されました。この加古川飛行場からも第76振武隊、第213振武隊、第214振武隊が編成されました。出撃が決まると特攻隊員たちの出陣式が行われ、その後、中継基地の熊本県「菊池飛行場」へ向かいます。そして最終目的地の鹿児島県の「知覧特攻基地」に向かい、総攻撃の日が決まると沖縄洋上米艦隊撃滅に向けて出撃しました。
また加古川飛行場は関東方面で編成された特攻機の中継基地にもなっていたため、多くの若者がこの加古川の地を訪れています。
第76振武隊出陣式
加古川飛行場で編成された特別攻撃隊 第76振武隊
第76振武隊は、第五次航空総攻撃に参加しました。この総攻撃の目的は敵艦船を徹底的に攻撃して、沖縄上空米軍の背路を遮断し、沖縄の戦局を有利に展開することでした。総攻撃開始は4月28日、日没前後に36機で敢行されました。
隊名:76振武隊 編成:昭和20年3月 第一航空軍 加古川基地
使用機種:97式戦闘機
発進基地:鹿児島県知覧基地
昭和20年 4月28日 16:50出撃 沖縄西方洋上米艦船を攻撃
97式(キ27)戦闘機 6機
中尉 岡村 博二 陸士56期
軍曹 境 忠 少飛11期
伍長 長谷川武弘 少飛13期
伍長 山口 慶喜 少飛13期
伍長 中川 芳穂 新 14期(逓信省新潟乗員養成所)
伍長 鈴木 啓之 米 14期(逓信省米子乗員養成所)
第76振武隊の一部は第七次航空総攻撃に参加
編成:昭和20年5月11日 6:40出撃 沖縄嘉手納沖米艦船を攻撃
使用機種:97式戦闘機 3機
少尉 久富 基作 幹候 9期
軍曹 戸次 政雄 米 10期(逓信省米子乗員養成所)
伍長 小嶋 英雄 米 14期(逓信省米子乗員養成所)
加古川飛行場で編成された特別攻撃隊 第213振武隊・第214振武隊
第213・第214振武隊出陣式
第213振武隊、第214振武隊の両隊は、昭和20年5月24日加古川飛行場で編成されました。第213振武隊は第九次航空総攻撃、第214振武隊は第十次航空総攻撃に参加。
隊名:第213振武隊 編成:昭和20年4月5日 第一航空師団 加古川基地
使用機種:97式戦闘機
発進地区:鹿児島県知覧基地
昭和20年5月28日 沖縄西方洋上の米艦船攻撃
97式(キー27)戦闘機 2機
伍長 松下 貞義 少飛13期
伍長 蘆田 慎一 米 14期(逓信省米子乗員養成所)
隊名:第214振武隊 編成:昭和20年4月5日 第一航空師団 加古川基地
97式戦闘機
発進地区:鹿児島県知覧基地
昭和20年6月3日 沖縄西方洋上米艦船攻撃
97式戦闘機 3機
伍長 谷口 積雄 少飛13期
伍長 深田 末義 米 14期(逓信省米子搭乗員養成所)
伍長 佐々木 暹 新 14期
昭和20年6月10日 沖縄西方洋上米艦船攻撃
97式戦闘機 1機
伍長 金井 良吉 米 14期(逓信省米子搭乗員養成所)
加古川飛行場で編成された待機特別攻撃隊
待機特別攻撃隊とは、終戦が迫る1945年夏に本土決戦に備えて特攻機を温存し待機させていた部隊のことで、陸軍では「と号部隊」と呼ばれ、全国で355隊が編成された。
加古川では1FRK(第1教育飛行隊)、 6FA(第六航空軍)が編成され、20隊もの振武隊が編成されている。特攻に使用する飛行機も95式練習機や97式戦闘機が特攻機として使われようとした。終戦末期には飛行場以外の学校、公会堂、公園、神社等木立の有る場所に分散保存された。しかしながら、終戦になり出撃することはなかった。
97式戦闘機 2隊 12機 95式練習機 18隊 126機
特攻隊員たちが宿泊した中村屋旅館
加古川飛行場が尾上に出来た時から、加古川町寺家町にある3階立ての旅館、「中村家旅館」を陸軍指定の旅館としました。戦争が激しくなるにつれて軍人の往来も激しく、家族の面会場所や他の隊へ転隊する兵士の送迎の場にもなりました。
昭和17年より関東方面から南方方面に向かう飛行機が、燃料補給や修理に着陸してくる回数が増え、その間、中村家旅館が飛行兵の宿泊場所となりました。さらに戦局が激しくなり、昭和19年11月からは、加古川飛行場が関東方面で編成された特攻隊の中継基地となりました。加古川で特攻機に爆弾懸架装置を取り付けるため、隊員たちは数日間滞在することになり、「中村家旅館」に宿泊し、家族との最後の面会や、仲間との束の間の休息の時を過ごしたのでした。旅館のご主人宮田亀之助さんと女将、宮田たまさんは、若き隊員たちの気持ちを察し、親身に話し相手になり、もてなしました。彼ら特攻隊員は、自分の思いを短冊、色紙に書き残し、宮田たまさんに預けて、熊本県「菊池飛行場」へと飛び立ったのです。そして出撃命令が下ると最後の場所、鹿児島県「知覧飛行場」へ、そこから沖縄の海へと向かったのでした。戦後、ご主人と女将さんは、特攻隊の人たちを悼み、昭和34年に『鎮魂特攻隊の碑』を旅館の前に建立しました。その後ご主人や女将さんが亡くなり、中村屋旅館も取り壊されることになったので特攻隊員の遺品や慰霊碑は鶴林寺に保管されています。
加古川周辺の空襲
戦況が悪化し、本土空襲が本格化して、この加古川近辺もアメリカ軍の戦闘機が襲撃するようになりました。7月23日に、グラマン戦闘機が加古川駅を機銃掃射し、続いて7月24日には、米機3機が小門口に爆弾投下、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者や負傷者、家屋の全焼等の被害がでました。7月28日には別府町が襲撃され、7月30日は、再びグラマン戦闘機が尾上や別府、そしてニッケ加古川工場及び寺家町3丁目に飛来し、爆弾数十個を落とし、死者や負傷者が出ました。 これらの空襲で死者10名、重傷者13名、軽症者13名、負傷者3名の方が被害に遭われました。
アメリカ軍の戦闘機からの写真
加古川の鉄橋と手前の日本毛織の工場付近に被弾した様子